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茨城のパワースポット、鹿島神宮と香取神宮 [旅行]

■鹿島神宮

鹿島神宮と香取神宮へ初めての小旅行。
地震を鎮める要石、東郷平八郎の揮毫した扁額、神獣とされる鹿、湖に立つ一の鳥居などなど歴史を感じました。 一の鳥居は厳島神社より大きく、水中に立つ鳥居としては日本最大だとか。
※気をつけたいのが電車の本数。そば屋「よしのや」さんで蕎麦を食べていたら、なんと一時間半も時間があいてしまいました(ちなみによしのやさんも室町時代創業の超老舗)。
片道15~20分ほどかけて一の鳥居へ。初の観光予定にはありませんでしたが、一の鳥居は見に来て良かったです。当時この浅瀬から上陸する信者のことなどを想像しつつ、しばし佇みました。

〉〉神の使いの鹿と「鹿島立ち」
常陸国(茨城県)の鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)の神使は鹿。
古事記によると、武甕槌命のところに天照大神の使者が来て、「香取神社の祭神、経津主命(フツヌシノミコト)と共に出雲の国へ行き、大国主命に出雲国を私に譲るように説得してきなさい」との神託を告げます。
いわゆる「国譲り」の神話の序章ですね。この時の使者「
天迦久神(アメノカグノカミ)」が鹿の神霊だったということから、鹿が神の使いにされるようになりました。ちなみに、そのとき地名も「香島」から「鹿島」になったとか。

また、武甕槌命は奈良の春日大社の祭神として勧請されて、神護景雲(じんごけいうん)元年(767年)6月21日、鹿島から白鹿に乗って出立して一年ほどかけて奈良の御蓋山(春日大社)に到着し、そこに鎮座しました。春日大社の社司の租、中臣時風(ときふう)と中臣秀行(ひでつら)がそれに随ったとのことです。この故事に由来して旅に出ることを「鹿島立ち」といいようになったとのこと。



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塚原卜伝の像

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東郷平八郎が揮毫した扁額
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楼門をくぐって振り返ると、左右に不思議な切り株のようなものが。2012年に境内に生えていた杉の神木の倒木で作ったもので、タケミカヅチの雷をイメージしているとのこと。
向かって右の切株の赤丸は天照大神(太陽)、左の金色の丸は月読尊(月)を表しています。
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柵越しに本殿と神木の杉を垣間見る
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鹿園の鹿
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御手洗池。かつてはここで身を清めたという
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要石。地中に埋まり全体像は見えません
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●鹿島神宮と香取神宮の要石・どちらが古い?


鹿島は凹で、香取は凸で二つ合わさって地鎮としているとのこと。
鹿島の要石は、徳川光圀が七日かけて掘らせたものの、まったく全貌がみえなかったため埋め戻したとのこと。当時かなり罰当たりな行為だったかもしれませんが、科学的思考の持ち主だったんでしょうね。
ちなみに電車で話しかけてきた地元のお爺さんが、香取神宮が鹿島より先に建立されたので御利益があると。
鹿島神宮では神武天皇元年、香取神宮の社伝では初代神武天皇18年の創建と伝えるので、一応鹿島神宮のほうが古いとはいえ、地名が香取から鹿島に変わった伝説もあることから、あながち噓とも言えなくない。


●香取神宮

敷地の広さは鹿島よりもずっと小さいですが、参道の賑わいはこちらの方が上。
黒い檜皮葺きの社殿、菊の御紋が渋い。
参道で有名なわらび餅の「岩立」さんで一休みしおみやげも購入。二晩寝かせてもプルプル、風味は損なわれませんでした。参道入り口の八百屋さんは野菜を買ったらおまけしてくれました。全体的に人情味のあふれる場所でした。

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こちらは凸の要石
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絶品!
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●佐原の町並み

虎やさんでは虎焼きと苺大福を購入。なんとその場でサービスで餅を焼いてくれました。
元々は京都創業だそうですが、この地で数百年営業している老舗です。
佐原は観光する時間がほとんどなく、町並みを眺めるだけでしたが、17:00ごろ突如放流し始めた水道橋など、人がいないからこその景色は味わえたかもしれません。
日曜日でも営業している飲食店は三店ほどかな? 居酒屋の「だし処 随に(まにまに)MANIMANI」さんは出汁にこだわり。「"最上白みりん"の炭酸割り」という珍しいものをオーダー!甘酒のようなコクのある甘さが、炭酸によりすっと抜けていきました。また、だし巻き卵は出汁の味たっぷり、むしろ砂糖など使っておらず素材の味が引き立ち美味でした。おでんと佐原の地酒に舌鼓、飲んで食べて暖まって帰りました。

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房総・小湊&いすみ線~歴史めぐり [旅行]

五井駅で小湊といすみ鉄道乗り放題の【房総横断乗車券1700円】を購入。
神社巡りが好きな友人と一緒にめぐりました。

①11時08分 国吉駅着
高秀牧場でピザとアイスを。ピザは人気でお昼の時点で1種類だけしかありませんでした。 牛舎は要予約でないと入れませんが、小高い山に広がる牧草地沿いに草をはむ牛を近くで眺めることができました。
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②国吉神社・出雲大社 13:15~13:45

国吉神社の方が創建は古い。地元の方のお話によると、出雲大社は幕末の長州征伐のときに出征した斧嶽という者がその怪力を認められて出雲大社の神官二人を携えて帰郷したということです。こちらは大国主の御子神が祀られているので、親子が揃って祀られている珍しい神社とのこと。

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>>引用
千葉県中央部がまだ上総国となる1500年の昔までこの地域はいくつもの小国に分かれており、長生・夷隅地域を伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)が治めていました。第27代安閑(あんかん)天皇の御代、国造は春日皇后に屯倉(みやけ)(御料地)を献上し、現在の神社の鎮まるいすみ市苅谷の地に勅使を迎える為の仮屋(かりや)が設けられ、後にこの仮屋跡に伊甚国造の祖である天穂日命(あめのほひのみこと)(出雲国造の祖でもある)と建比良鳥命が仕えた大国主命の御子神である健御名方命がまつられたのが始まりです。後に各地の神々が合祀され国吉神社と称されるようになり、厄除け・八方除け・交通安全・家内安全の神社として信仰されています。国吉神社の隣には健御名方命の親神にあたる大国主命をまつる出雲大社が鎮座します。幕末の作田村に斧嶽(ふがく)と号する人並みすぐれた怪力と才知の持ち主がおり、その怪力ぶりは米俵二俵を背負い、両手に一俵ずつさげて持ち、口に一俵をくわえて持ち歩いたと伝えられる程でありました。長州征伐の際、幕府軍の目付役となった村の領主は、強力無双の斧嶽を従者に選び島根県へと到着したが戦はすでに終わり、折しも出雲大社の奉納相撲が催されており、斧嶽はその相撲に加わり無敵の強さを示した。あまりの強さに千家宮司は神業としか思えないとして斧嶽に神璽(みしるし)を授けました。故郷に帰った斧嶽は仮殿を設け篤く信仰し、信者は日増しに増え、現在地に明治二十四年に神殿を完成させ翌年には盛大な遷宮式が行われました。


③14:07 国吉駅発
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④15:18~18:30 養老渓谷めぐり
●里見八犬伝の富士山宝林寺
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https://www.kominato.co.jp/tourism/yorokeikoku/horinji-temple/index.html
戦国時代、房総で勢力を誇った里見氏ゆかりの曹洞宗のお寺です。里見家6代義尭の長女の種姫が、1564(永禄7)年第二次国府台合戦で北条氏に敗れ、25歳の若さで戦死した夫の正木信茂の菩提を弔うため、七堂伽藍を備えた寺を建立したのが始まりとされています。 ぶっちゃけ寺の住職がいらっしゃるということでしたが、残念ながらご不在でした。

●出世観音立国寺
http://shusse-kannon.life.coocan.jp/
源頼朝ゆかりの寺。頼朝の信仰篤い観音様を配置。彼がのちに鎌倉幕府を樹立するために立身出世したことから、そのご利益を求め参拝者が多いとのこと。
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>>引用
源頼朝公は、義朝公の三男として生まれ、13歳で父とともに平治の乱に出陣し、敗戦して東国に逃れる途中捕らえられ、伊豆国蛭ガ小島に流された。ここで流人生活を送ること20年、この時、伊豆山権現別当をしていた覚淵の勧めにより、持仏の観音様に法華経の観音経を唱えるようになった。その後、高尾山神護寺の再興を志し、後白河法皇に寄付を強要したことから、伊豆に流された文覚と知り合う。 文覚は、たびたび頼朝のもとを訪れ挙兵を勧めたといわれる。また、平家一族の横暴に耐えかねていた周辺武士の要請もあり、祈願の半ばであったが観音経800巻の成就をもって、治承4年(1180)8月平家討伐の旗揚げをした。

●弘文洞跡
中瀬遊歩道を歩くと途中で行き止まりでした。残念ながら共栄・向山トンネルから回っても、川にかかる飛び石に流木がひっかかり展望台までいけませんでした。

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●共栄・向山トンネル
SNSなどで広まった二段式トンネル。溪谷側から戻ると普通のトンネルに見えるので注意。

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⑤19:21 養老渓谷出発

夏は日没が遅いのでこの時間までいられました。 ちょうど蛍の季節で期待しましたが、地元の人によると昔は駅前近くの田んぼで見られたそうですが、現在は見られないそう。致し方ないのでそのまま帰りました。

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